国際的に活躍する現代美術家、森村泰昌による個展が、静岡市美術館にて6月10日まで開催されている。『森村泰昌 モリエンナーレ まねぶ美術史』と題されたこの展覧会。トリエンナーレでも、ビエンナーレでもなくて、モリエンナーレ? そして「まなぶ」じゃなくて「まねぶ」? 何かそのタイトルからして普通とは違う、一風変わった感じの面白そうな展覧会になりそうだ。このページではこの展覧会の見どころを、森村さんご本人にお話をお伺いしながら、じっくりとご紹介したい。
ゴッホの自画像やマリリン・モンローの艶姿など、誰もがよく知るイメージの数々……でも、よく見るとどれも同じ人? 現代美術家・森村泰昌さんは、こうした存在に自らが扮する不思議な「セルフポートレイト」作品で国際的に活躍してきました。しかしご本人は、芸術家としての自分のスタート地点を「みごとにへたくそ」と言ってのけます。静岡市美術館で開催中の『森村泰昌 モリエンナーレ まねぶ美術史』は、試行錯誤した若き日々の作品と、当時影響を受けた先人たちの名作を並べて体験するユニークな試み。耳慣れないキーワード「まねぶ」の意味は? そこに秘められた、美術のプロになる3つの条件とは?美術館に森村さんご本人を訪ねました。
インタビュー・テキスト:内田伸一 撮影:佐々木鋼平
1951年大阪生まれ。京都市立芸術大学美術学部卒業。1985年、ゴッホの自画像にみずからが扮して撮影する、セルフポートレイト手法による大型カラー写真を発表。以降、一貫してこのセルフポートレイト表現を追求してきた。1988年のベネチアビエンナーレ/アペルト部門出展以降、国際的にも活躍。古今東西の名作絵画の登場人物になる「美術史シリーズ」、映画女優に扮する「女優シリーズ」、また歴史的人物や場面を独自の解釈で再構築する「なにものかへのレクイエム」シリーズなどを手がける。映画や芝居、パフォーマンス、さらに文筆活動など多方面に活躍中。2011年にはその芸術活動が評価され、紫綬褒章を受章した。
—今回の展覧会は、森村さんといえばのセルフポートレートではなく、美術を志す若者にはお馴染みの、石膏デッサン図から始まっていますね?
森村:デッサンの右下に「1-D 37」って書いてあるでしょう。1年D組37番、僕の高校時代の出席番号です。初めから上手かったんだという、ピカソみたいな美談じゃもちろんありません。むしろその真逆(笑)。ご覧のとおり、デッサンの基本がどれもてんでできていない。「でも大丈夫、こんな僕でも成長しましたから」っていう意味で、これを最初に持ってきました。
—森村さんはこの展覧会に寄せた文章でも、「やればなんとかなるさ」と書いています。ただし、「いくつかの条件がある」とも続けていますね。そのひとつめが「ともかく熱中すること」でした。
森村:今振り返っていえば結果論かもしれませんが、若いころの試行錯誤があってこそ、今の自分があると思うんです。それで今回は、そういう若いころの作品と、当時の自分が影響を受けていた作品を一緒に並べて見ていただく、という一風変わった展覧会なんですよ。
—カンディンスキーやパウル・クレーといった西洋美術の巨匠から、岡本太郎や横尾忠則など戦後日本の著名作家に至るまで、51人の先人の多彩な表現が並びますね。そこに隣り合う若きモリムラ青年の作品も、ひとつひとつ、確かによく似ています。
森村:そのときどきで、夢中になって描いてたんですよ。たとえばカンディンスキーの抽象画。油絵に憧れて美術クラブに入った僕は、何かしっくりこなくて、「いま」の芸術にふれようともがいていた。その中で出会ったのが彼の作品なんです。当時の僕の絵は、どれも小さいでしょう? 授業中に先生に隠れて、画集を見ながらこっそり紙に描いていたんです。
—美大在籍中や、その後の試行錯誤も本当にいろんなスタイルからの影響が見られますね。さらに、隣りに並んだ先人の作品群を見ると、それぞれの時代の美術の流れもわかるようで興味深いです。
森村:結局、僕は紆余曲折の果てに、34才でゴッホの自画像にみずから「なりきる」作品をつくります。それが今の作風の原点ですが、石膏デッサンが16才だから、さらにその倍以上生きてからのことです。もちろん、もう芸術家なんてやめようと思ったことも何度かあります。
―でも結局やめられなかったんですね。
森村:別に諦めないで頑張るぞ! っていう強い意志があったわけじゃないんですけど、なぜかやっぱり続けてきたんですよね。で、やっぱり続けているといいことがあるんですよ。それでわかってくることもある。例えば、芸術って一過性のものではないとかね。ワインみたいに、その新鮮さが魅力な表現もあれば、寝かせていい味になるものだってあるかもしれない。僕は、公募展に落選していた若いころの自分の作品がいま、けっこう好きなんです。
森村泰昌
1967年頃 ペン、紙 17.6×25 作者蔵
ワシリー・カンディンスキー 小さな世界Ⅸ
1922年 ドライポイント、紙 35.8×30.5 高松市美術館蔵
—芸術家になるためのふたつめの条件に「苦しみを味わうこと」を挙げていますね?
森村:もうお話していてわかってもらえると思いますが、夢中だからといって、全部が楽しいわけじゃあありません。よく「自分の好きな表現を作品にしているから、さぞ楽しいでしょう」といったことを聞かれますが、それはランナーに「走るのが好きでいいですね!」というようなもの。どんなに楽しそうに見える作家でも、どこか見えないところで産みの苦しみを味わっています。その苦しみと一緒に創作を続けられないなら、芸術家には向いていないかもしれません。
—森村さんご自身も、一時は絵本作家に転身しようかと考え、実際に制作した原稿なども今回は特別に展示されていますね。『10円玉がからかわれる話』など、独特のユーモアを感じました。
森村:結局デビューには至らなかったし、美術に戻ってきたんですけどね(笑)。美術をやめない理由を聞かれたら、僕の場合は「それしかなかった」というのが正直な答えです。僕は大学を出て一度会社に就職したのですが、3日でやめた人間ですから。表現の世界を選んだのは、自分ひとりでなら、何かができるという気持ちに支えられてのことです。
—ほかにも今回紹介されているような作品づくりの時期は、スタイルもどんどん変わっています。やはりかなり苦悩もあったのですか?
森村:いってみれば、精神的な「美への旅」で、放浪の日々ですよね。いまでもその旅は続いていますが、違いがあるとすれば、以前はどこか闇雲に飛び出していく旅でした。今はもう少し、計画をたてられるようになった。美術家として一人前の旅というのかな。でも冒険であることに違いはないですし、「飛び出せ」式の旅もけして無意味ではないと思うんです。揺れてもいい、ブレさえしなければいいんだってね。ただ、一人旅といっても、完全に閉じていてはどこか空気が濁ってくる。表現者も何らかの形で外界とつながらずにはいられないと思います。
—先ほどお話に出たゴッホの自画像作品も、一種の外界へのメッセージだったのでしょうか?
森村:当時は「これだ!」というより、言葉は悪いですけどヤケクソですよ(笑)。いってみれば、美術界にこれでも食らえとトマトを投げつけるようなものでした(笑)。でも人間って、トマト投げられたら振り向くじゃないですか。いままでは素通りされてたのが、内容はともかく反応が返ってくる。そういう意味では乱暴な、一種の「芸術内暴力」みたいなものです。結果として「じゃあ君の言い分を聞いてみようじゃないか」となったわけです。
難波田龍起 心象の街
1953年 油彩、カンヴァス 90.9×116.7 高松市美術館蔵
森村泰昌 1970年代初め〜中頃
アクリル、パネル 103.2×72.9 作者蔵
—森村さんが挙げた芸術家になるための条件、3つ目は「まねぶ」こころの持ち主になること。聞き慣れない言葉ですが、「まねぶ」とは?
森村:「まなぶ」と「まねる」、両方の語源となる古語なんです。だから、本来このふたつの行為は同じ意味合いを持っていたのでしょうね。
—「まねぶ」こころ。まさに今回の展覧会のテーマという感じですね。
森村:そうなんです。ただ、いわゆる模写ともちょっと違います。似せることが目的ではなく、その表現の中に自分が入っていくこと、その体験が重要だからです。思えば僕が現在まで続けている「セルフポートレート」の作品群も、名画や歴史的シーンの中に自分が入っていくもので、「まねぶ」精神は今の僕の作品にも重要なものです。
—そしてこの展覧会でわかるように、その要素は若いころからあったのですね。
森村:そう。そして、「まねぶ」は必ずしも一対一ではないんです。今回の展覧会でも、僕の作品と並べさせてもらった名作群には、直接強い影響を受けたものから、当時の僕は見ていないはずのものもあります。影響を与え、受ける関係性は、意識する部分を超えて存在しているとも思います。
—現在の作風を確立していく過程で、「まねぶ」こころはどんな存在だったのでしょう?
森村:色々なスタイルに挑戦する中で、やはり自分でも「何やってんやろ俺」と思う時期もありましたね。でも逆にその経験の上に、いまがあるとも言えます。この展覧会でわかる通り、ドローイング、油絵、シルクスクリーン、そして抽象画や細密画、立体作品など、バラバラで分裂気味の森村泰昌がいます。でもあるときハッと気づいたんです。これすべて、やっているのは同じ「私」なんだって。いわば「私」という舞台の芸術監督。その劇場ではどんな物語でも森村泰昌として上演できる。そう考えるようになって、セルフポートレート表現も今まで続けてこれたんです。
—「まねぶ美術史」の「美術史」のほうに関連していうと、森村さんのセルフポートレートは、東洋人の森村さんが西洋画の美女に扮したり、同じ絵の中の主人と召使いに扮したりすることで、人種やジェンダー(社会的性差)の問題を考えさせられる……といった社会的な解釈もなされてきましたね。
森村:そうですね。でも僕自身は、系統だった存在としての美術史には本来、ほとんど興味がないんです。それに、美術史というのは常に変わっていくもの。かつて西洋においては自分たちの世界の美術のみで歴史が構成されていた。それがやがて、どうやらアジアにも、アフリカにもあるらしい…ということになってきたのが近現代の流れですよね。そして僕はやっぱり、自分の理解する中での「私(わたくし)美術史」を突き詰めていきたいんです。
—今回の新作群も、その考えのもとにあるといってよいでしょうか?
森村:最後の部屋で見てもらう、故・田中敦子さんの『電気服』に捧げる映像作品があります。ご遺族の協力で新しい『電気服』を作り、僕が田中さんに扮してそれを着るパフォーマンス的なものです。貴重な電球を何度も点滅させてもらったのですが、そのたびに電球には負荷がかかり、寿命が縮んでいきます。でも同時に、電球は熱を帯び、光り輝いていく。そのとき「あぁ、この作品って生命そのものを表していたのじゃないかな」って思ったんです。
—それもまた森村さんの「美への旅」なんですね。
森村:ええ。そして、旅は線ではなく面なのでしょうね。どの道を通るかは人それぞれ。そしてどんな風に進んで行くかで、「まねぶ美術史」も変化していくと思うんです。
岡本太郎 生成
1961年 油彩、カンヴァス 228.5×162.5 高松市美術館蔵
森村泰昌 絵画の国へ2
1976年 油彩、パネル 84.5×140.4 作者蔵